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2008.04.19

飛行船物語(第4便)

鏡に恋
 
 
 しゃき、しゃき、とハサミの動く音とともに、わたしの栗色の髪の毛がはらりはらりと落ちていった。
 
 首から下を覆った白いシーツの中で指先を動かして、シーツに乗っかった髪をちょんと跳ね上げてみた。すると10センチほどの長さに切られた十数本の髪の毛グループは、もうわたしたちはあなたと関係ありませんから、というふうに、するりとシルクのようなシーツを滑り降りてメープルブラウンの床に散らばった。
 
 今までわたしの体の一部だったものがわたしの体を離れ、存在してるというのは、不思議だ。
 
 今までわたしの一部だった。神経こそ通ってなくとも、わたしの肉体が生み出した物質である。それが切られたとたんによそよそしい。
 
 これが自分の腕や足だったらどうなるんだろう。
 
 おそらく正気じゃいられないに決まってる。痛さよりも、失ったものの大きさに嘆き悲しむことだろう。そう想像すると、切られた髪に何の感傷もないわたしは、膝の上に落ちた髪の毛たちになんだか申し訳ない気持ちになる。
 
 そんなことをわたしの後ろに立ってハサミを動かし続けているタケさんに言ったらどういう顔をするだろう。
 
 ちょっと困った顔をして、それでもわたしを傷つけまいとほほに笑みを浮かべて、「優しいんだね」とか言ってくれるだろうか。
 
 わたしにはそんなくせがあった。相手が答えに困るような質問をするのだ。もちろん正しい答えを求めているわけではない。わたしが感じる《不思議なこと》を、わたし以外の人はどんなふうに感じているのか知りたいだけだ。
 
 たまに『自分はこう思う』と答えてくれる人がいると、その人の頭の中を覗き見したような気分になって楽しくなる。写真週刊誌のゴシップ記事なんかよりずっとドキドキする。
 
 ねえ、そう思いませんか、とわたしは鏡の中のタケさんに向かって言った。
 
 鏡の中の人だから普通に口に出して言ったところで通じない。鏡の中だけで通じる言葉で言う。
 
 でも鏡のタケさんは何も答えてくれなかった。きっと髪を切ることに集中してるんだろう。
 
 鏡の中のタケさんはかっこいい。
 
 ちょっと顔を斜めにうつむき加減にしていると、彫りの深い顔立ちがいっそう引き立つ。ギリシャ彫刻のようとまで言うつもりはないけど、鋭角的なあごのラインやすっと通った鼻筋は日本人離れしていた。
 
 わたしは映画のスクリーンを眺めるように鏡の中を見ていた。
 
「それはね、心と体がべつべつのものだという証拠じゃないかな」
 
「え?」
 
 不意に鏡のタケさんから話しかけられた。信じられない。声が聞こえた。耳の鼓膜を震わせるんじゃなくて、体の中のどこかがタケさんの声をとらえて震えていた。
 
 鏡のタケさんは手を動かしながら言う。
 
「心と体はお互いに仲良くしたり、けんかしたりするだろ。だから別れることだってあるよね。もし事故で手足がなくなったとする。しばらくは痛いけど、でもずっと痛いわけじゃない。それぞれ別の道を歩くだけなんだから。だから髪を切った後、切られた髪のことを思い続ける必要はないんじゃないかなあ」
 
「恋愛みたい」
 
「そうだよ。もしかしたら恋愛関係のほうが心と体の関係を真似たのかもしれないね」
 
「タケさん、すごい」
 
 すると、鏡のタケさんはちらりと白い歯を見せて笑い、
 
「だからもし、彼氏とうまくいかなかったからといって気にすることなんてないんだよ」
 
「気にしてません」
 
 図星を指され、わたしはほほをふくらませた。「それに、アイツなんかよりもっと好きな人がいますから」
 
「へえ、そうなんだ」
 
「誰だと思います?」
 
 するとタケさんはわたしの質問には答えず、ハサミをそばにあったワゴンに乗せると鏡の中の窓を指差した。「ほら、プレゼント」
 
 鏡の中の窓に映る青い空はまるで水槽のようだ。その中を、ゆっくりと泳いできた小さな白い魚がいる、と思った。魚じゃない、飛行船だ。
 
 白い飛行船はゆっくりゆっくり青い水の中を泳ぐ。わたしはその姿に見とれた。 
 
 かわいい。

「ふふ」
 
 思わず笑った。こんなことをしてくれる鏡のタケさんが好きなのだ。
 
 鏡のタケさんも窓の向こうの飛行船を見ながら、
 
「今日のプレゼントは特別。本当の僕はこうして君と話せるわけじゃないからね」
 
「どうして?」
 
「どうしてだろう。今度は君が考える番だよ」
 
「わからないよ」
 
「じゃあ今度、君がこの飛行船を見つけたときに教えてあげるよ」
 
「それはいつ?」
 
「空を見ていれば、いつか」
 
 鏡のタケさんは振り向くと、じっとわたしを見つめた。その顔に触れたかった。でもわたしの手はシーツの中だ。
 
 こんなに好きなのに。
 
 わたしの気持ちを伝えたかった。 
 
 椅子に座ったまま手足を自由に動かせないこの状態で、気持ちを伝えるには言葉しかない。
 
 でもそのひと言が言えなかった。どうしても唇が動かなかった。
 
 あれ? 遠くで男の人の声がわたしの名前を呼んでいる。うるさいわね、今いいところなんだからほっといて。
 
……カット終わりしたよ。あのー、起きてください……  ■

  
 

 これが自分の腕や足だったらどうなるんだろう。
 
 おそらく正気じゃいられないに決まってる。痛さよりも、失ったものの大きさに嘆き悲しむことだろう。そう想像すると、切られた髪に何の感傷もないわたしは、膝の上に落ちた髪の毛たちになんだか申し訳ない気持ちになる。
 
 そんなことをわたしの後ろに立ってハサミを動かし続けているタケさんに言ったらどういう顔をするだろう。
 
 ちょっと困った顔をして、それでもわたしを傷つけまいとほほに笑みを浮かべて、「優しいんだね」とか言ってくれるだろうか。
 
 わたしにはそんなくせがあった。相手が答えに困るような質問をするのだ。もちろん正しい答えを求めているわけではない。わたしが感じる《不思議なこと》を、わたし以外の人はどんなふうに感じているのか知りたいだけだ。
 
 たまに『自分はこう思う』と答えてくれる人がいると、その人の頭の中を覗き見したような気分になって楽しくなる。写真週刊誌のゴシップ記事なんかよりずっとドキドキする。
 
 ねえ、そう思いませんか、とわたしは鏡の中のタケさんに向かって言った。
 
 鏡の中の人だから普通に口に出して言ったところで通じない。鏡の中だけで通じる言葉で言う。
 
 でも鏡のタケさんは何も答えてくれなかった。きっと髪を切ることに集中してるんだろう。
 
 鏡の中のタケさんはかっこいい。
 
 ちょっと顔を斜めにうつむき加減にしていると、彫りの深い顔立ちがいっそう引き立つ。ギリシャ彫刻のようとまで言うつもりはないけど、鋭角的なあごのラインやすっと通った鼻筋は日本人離れしていた。
 
 わたしは映画のスクリーンを眺めるように鏡の中を見ていた。
 
「それはね、心と体がべつべつのものだという証拠じゃないかな」
 
「え?」
 
 不意に鏡のタケさんから話しかけられた。信じられない。声が聞こえた。耳の鼓膜を震わせるんじゃなくて、体の中のどこかがタケさんの声をとらえて震えていた。
 
 鏡のタケさんは手を動かしながら言う。
 
「心と体はお互いに仲良くしたり、けんかしたりするだろ。だから別れることだってあるよね。もし事故で手足がなくなったとする。しばらくは痛いけど、でもずっと痛いわけじゃない。それぞれ別の道を歩くだけなんだから。だから髪を切った後、切られた髪のことを思い続ける必要はないんじゃないかなあ」
 
「恋愛みたい」
 
「そうだよ。もしかしたら恋愛関係のほうが心と体の関係を真似たのかもしれないね」
 
「タケさん、すごい」
 
 すると、鏡のタケさんはちらりと白い歯を見せて笑い、
 
「だからもし、彼氏とうまくいかなかったからといって気にすることなんてないんだよ」
 
「気にしてません」
 
 図星を指され、わたしはほほをふくらませた。「それに、アイツなんかよりもっと好きな人がいますから」
 
「へえ、そうなんだ」
 
「誰だと思います?」
 
 するとタケさんはわたしの質問には答えず、ハサミをそばにあったワゴンに乗せると鏡の中の窓を指差した。「ほら、プレゼント」
 
 鏡の中の窓に映る青い空はまるで水槽のようだ。その中を、ゆっくりと泳いできた小さな白い魚がいる、と思った。魚じゃない、飛行船だ。
 
 白い飛行船はゆっくりゆっくり青い水の中を泳ぐ。わたしはその姿に見とれた。 
 
 かわいい。

「ふふ」
 
 思わず笑った。こんなことをしてくれる鏡のタケさんが好きなのだ。
 
 鏡のタケさんも窓の向こうの飛行船を見ながら、
 
「今日のプレゼントは特別。本当の僕はこうして君と話せるわけじゃないからね」
 
「どうして?」
 
「どうしてだろう。今度は君が考える番だよ」
 
「わからないよ」
 
「じゃあ今度、君がこの飛行船を見つけたときに教えてあげるよ」
 
「それはいつ?」
 
「空を見ていれば、いつか」
 
 鏡のタケさんは振り向くと、じっとわたしを見つめた。その顔に触れたかった。でもわたしの手はシーツの中だ。
 
 こんなに好きなのに。
 
 わたしの気持ちを伝えたかった。 
 
 椅子に座ったまま手足を自由に動かせないこの状態で、気持ちを伝えるには言葉しかない。
 
 でもそのひと言が言えなかった。どうしても唇が動かなかった。
 
 あれ? 遠くで男の人の声がわたしの名前を呼んでいる。うるさいわね、今いいところなんだからほっといて。
 
……カット終わりしたよ。あのー、起きてください……  ■

 
 

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