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2008.07.15

飛行船物語(第12便)

ジムノペディ
 
 
 ゆるやかなピアノの旋律ががティーポットから流れ出る紅茶の中に吸い込まれていくような気がした。
 
 ショパンかなと思ったけれど、はっきりわかるほどクラシックに詳しいわけでもないから、ただ黙って耳でメロディを追いかけていた。
 
 白いテーブルクロスの向こうでローズピンクのワンピースを着た《あやなママ》さんと、明るいクリーム色のパンツスーツの《ひろきママ》さんがお互いの子どものことを話している。もうすぐ幼稚園のクリスマス会だ。プレゼントをどうするかひとしきりしゃべって楽しそうに笑う。わたしは頬の片隅に笑みを浮かべながら、ピアノの音に耳を澄ませていた。
 

 十二月の昼下がり。都心を見渡せる高層ホテルのレストランは、遅い食事をとりながら打合せをする黒いスーツ姿のビジネスマンの姿がちらほら。西日が射し込むにはまだ早い窓際に陣取ったわたしたち女三人のテーブルだけが明るい。
 
 不意に《ひろきママ》さんが振り向いて、
 
「るいくんの小学校、どこ受けるの?」
 
 とっさに答えられなくて、言葉につまった。瑠衣はわたしの一人息子である。彩菜ちゃんも大樹くんも瑠偉のお友達、幼稚園の年長さん。来年四月にはみんな小学生になる。
 
 今通っている幼稚園は私立である。ブランドロゴの入ったかわいい制服と英語教育が人気の幼稚園に集まってくる子どもの親はみな、それなりの資金力を持つ。
 
 エスカレーター式の小学校を持たない幼稚園だから、この時期、親たちの関心はもっぱら来年の小学校受験のことである。《あやなママ》さんがわたしを励ますように、
 
「《るいママ》さんとこは成績優秀だもんね。英語も話せるし。Kを受けたらいいのに」
 
 一流大学までつらなる名門小学校の名前が出てきた。
 
「無理だってば。あそこは面接が厳しいんでしょう」
 
 たしかに去年までアメリカで育った瑠偉は英語を話すことに何の抵抗もない。でもそれは勉強ができるということではないのだ。幼稚園での《成績優秀》がどれほどの意味を持つのだろうと思いながら、わたしは白いお皿の上に飾られたケーキのイチゴをフォークで刺しながら笑顔で応じる。うっかり「ええ」なんて答えたら、ママたちの間でそれが決まったことになってしまうだろうと思った。
 
《ひろきママ》さんはわたしの返事に肯定も否定もせず、
 
「やっぱりKが一番らしいわよ、いろいろ調べてみたけど。倍率が高いだけのことはあると思うの」
 
《あやなママ》さんが心配そうに眉をひそめて、
 
「やっぱり幼稚園のときから行かせておくべきだったかしら」
 
「幼稚園だって受かるのたいへんなのよ。だって大樹が落っこっちゃったじゃない。忘れた?」
 
「そうだったかしら?」
 
「そうなのよ。だから今度もダメもとで受けてみるつもりよ」
 
「じゃあ、彩菜も受けさせててみようかな」
 
「せっかくなんだからみんなでKを受けてみる?」
 
「えー、やだ。彩菜だけ落ちたらみっともないじゃない」
 
 二人の笑い声に合わせてわたしも笑った。流麗なピアノの音が途切れがちになった。
 
 小学校をどこにするか関心がないわけではない。せっかくならいい学校に行かせたい、という思いはある。教育費を心配しているわけではない。それなのに、わたしは心の底に溜まった泥のような気持ちをすくおうとせず、目をそらした。
 
 窓の向こうに広がる東京の町は排気ガスのせいなのかぼんやりと霞んでいた。無数とも思えるビルの上を潜水艦のようなシルエットが小さく動いていた。飛んでいるというより、浮かんでいるように見えた。
 
 わたしが遠くの空を眺めているのに気がついた《ひろきママ》さんが、どうしたの? と笑顔を向けた。
 
 ほら、あれ、と指さしただけでシルエットに気がついた彼女は、「ああ、飛行船」とあっさりとその正体をわたしに告げると、その姿を気にすることもなく《あやなママ》さんに向き直った。
 
 まるで流行の服を選ぶように学校の品定めをする二人の会話についてゆけなくて、わたしは遠くに見える飛行船を目で追い続けた。
 
 いつしか流れるピアノがサティのジムノペディになっていた。よく知られた第一番がぽつりぽつりと聴こえてきた。
 
 回転が止まる前のオルゴールのようなメロディ。それが不思議と飛行船の動きに合っていた。曲に合わせて飛んでいるかのように思えた。
 
 飛行船をじっと見つめていると、わたしは少しずつ心の底に降りて行くような気がした。
 
 たぶん瑠衣は私立小学校へ行かせることになるだろう。それが悪いことだとは思わない。むしろ瑠偉のためにそうしてあげたいとさえ思う。レベルの高い教育は誰もが望むところだ。
 
 ただ、それが本当に最良なのかはわからない。面接のとき、「なぜわが校を受けようと思ったのですか」と聞かれたら、「わからない」と言ってしまいそう。わからないままに階段を上る。立ち止まって考えることがない。本当に階段を上っているのだろうか。透明の空気のような階段はいつかふっと消え失せてしまわないだろうか。
 
 飛行船は少しずつ小さくなり、霞の中にまぎれてゆく。
 
 ジムノペディが、ぽつんと終わりを告げた。
 
 ぬるくなった紅茶を口に運んで唇を湿らせると、自然と言葉が出た。
 
「わたし、瑠偉を近所の小学校に通わせようかな」
 
 ぎょっとしたように、二人のママさんがわたしを見る。わたしは本当の笑みを浮かべて言った。「ちょっと悩んでみたくなったのよ」
 
 階段を踏み外さないために必要なことなのだ。
 
 わたしは遠くに小さく見えた飛行船の姿を思い出していた。
 
 そういえば、飛行船は何のために飛ぶのだろう。
 
 
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