D.飛行船物語

2008.07.15

飛行船物語(第12便)

ジムノペディ
 
 
 ゆるやかなピアノの旋律ががティーポットから流れ出る紅茶の中に吸い込まれていくような気がした。
 
 ショパンかなと思ったけれど、はっきりわかるほどクラシックに詳しいわけでもないから、ただ黙って耳でメロディを追いかけていた。
 
 白いテーブルクロスの向こうでローズピンクのワンピースを着た《あやなママ》さんと、明るいクリーム色のパンツスーツの《ひろきママ》さんがお互いの子どものことを話している。もうすぐ幼稚園のクリスマス会だ。プレゼントをどうするかひとしきりしゃべって楽しそうに笑う。わたしは頬の片隅に笑みを浮かべながら、ピアノの音に耳を澄ませていた。
 

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2008.07.09

飛行船物語(第11便)

三日月ゲーム
 
 
 困ったことになった、と僕は思った。
 
 解決策を知っていれば困らない。困った状態が僕を憂鬱にさせるのは目の前の壁を壊して前に進むことができないからで、後戻りできるのならそうするが、時間は巻き戻らないし、記憶は消えない。
 
 前の壁が塞がっているのに、過去がどんどん後ろから僕を押しつぶそうとするから、僕はしだいに息苦しくなってくる。
 
 助けを呼ぶしかない、そう判断した僕は助手席の彼女に声をかけた。彼女は壁の向こう側にいる。
 
「今日の晩ごはんはどこで食べようか」
 
 そして、少しは壁を柔らかくしようと冗談を言った。「《回転寿し》とかどうだろう」
 
「最低」
 
 彼女は運転席とは反対側に顔を背けたまま、ぼそりと呟いた。壁は逆に硬くなったようだった。

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2008.06.29

飛行船物語(第10便)

恋の水
 
  
 都内で一番早く日が暮れるのはこの通りかもしれないと思う。
 
 ごちゃごちゃと建て込んだビルの背がどれも高いものだから、その下の毛細血管のような細い通りに面したコンビニのレジに立っていると、真昼でもなんとなく薄暗い。まして11月の下旬にもなれば、午後三時頃には通りの向かいにある韓国料理屋さんの赤い看板が光りだす。
 
 どうしてこんな陰気な店のアルバイトになったのかと思われそうだけど、その頃わたしは手痛い失恋から来た軽い鬱状態で、とにかく人とあまり顔を合わせたくなかったのだ。
 

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2008.06.28

飛行船物語(第9便)

夢の話
 
 
 高校時代の友人が上京したので一緒に飲んだ。
 
 東京駅にほど近い小料理屋のカウンターに並んで座ったのは、忘年会シーズンには少し早い季節の夕刻である。
 
 彼は九州の地元にほど近い町の総合病院で外科医師として働いている。高校を卒業してから三十年以上がたっていた。
 
 実は先月、何年かぶりに珍しく同窓会があったのだけど、僕は仕事で行けなかった。友人はそのときの様子を土産話にしながら、ため息まじりに「やっぱみんな老けたよな」と言った。
 
 そう言う彼の頭頂部も地肌が見え隠れしているのだが、僕はそれには触れず彼のグラスにビールを注ぎながら、
 
「そりゃあ、しかたないよ。そろそろ老眼鏡の世話になる年だから」
 

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2008.06.26

飛行船物語(第8便)

コスモス一輪
 
  
「うっせえんだよ、ババアっ」
 
 娘のルミが叫んだ。彼女の耳たぶで金色に光るボールチェーンのピアスが小さく揺れた。
 
 わたしは棒立ちである。何かを考える余裕はない。ただ日曜日の夜十時から外出しようとするルミを止めたらこうなった。
 
「どこに行こうっていうのよ、こんな夜中に」
 
「どこだっていいでしょ」
 
 ルミはわたしと目を合わせない。ソファに置かれた黒いバッグの中にいらいらとケータイや財布を投げ込んでいる。そのバッグとて、わたしの知らない間に買ってきたものだ。
 
「だめっ」
 
 わたしは夢中でそのバッグを引ったくると自分の胸にしっかりと抱えた。ここ数ヶ月、わたしとルミの間でこんなことが増えてきていた。彼女が高校受験に失敗してからちょっとずつ何かが変わってきていた。
 

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2008.05.26

飛行船物語(第7便)

信号機
 
 

 僕は信号機である。
 
 手にした赤色棒をぐるぐると左に回すと、それを合図に、年老いたゾウのように黒いダンプカーが動き出した。
 
 黄色いヘルメットをかぶり、警備会社が支給した大きすぎる紺色のコートを着た僕は道の真ん中で、僕は赤色棒を回し続ける。
 
 地響きのような音を立てて、ダンプカーは灰色の排気ガスを大量にまき散らしながら走り去っていった。その後ろを何台もの車やトラックが続いて走る。土埃が舞い上がる。埃をまともに浴びそうになって僕は目をつぶり棒立ちになった。
 
「おい! もういいのか!?」
 
 レシーバーのイヤホンから反対側で車を止めている川村さんの怒鳴り声が聞こえた。
 
「すみません。今から流します」
 
 僕は目をしばたたかせながら猛烈な勢いで走ってきたタクシーに両手を大きく振ると赤色棒を横にし、頭を下げ、停めた。今度は百メートルほど離れた現場の反対側で川村さんが腕を回し始めた。それがほぼきっちり三十秒で終わり、今度はまた僕が腕を回す。急発進したタクシーは僕の体すれすれに走りすぎ、僕は後ろへ二三歩よろめいた。
 
 赤いプラスチックのコーンに黄色と黒の警戒色を施したバーで囲まれた現場では、山吹色のパワーショベルがうなりをあげて道路を掘り返していた。
 
 工事現場は連日雑多な音と色の洪水である。音は周囲に当たり散らばり跳ね返る。色は網膜に残像がいつまでも消えない。
 
 仕事になじめず会社を一年でやめて、預金通帳の数字が限りなくゼロに近づいたとき、僕はしかたなく信号機になることにした。理由は時給がよかったのと給料が週払いだったことである。
 
 信号機の仕事は予想通りおそろしく単調で、終わりがなかった。
 
 片側一車線の道の片方を塞いで交互通行させると信じられないくらいに渋滞する。もっとも信号機は渋滞がどのくらい伸びているのか知ったことではない。10キロでも20キロでも渋滞すればいい。信号機にとって大事なのは車にひかれないことと、バイト代を確実に手にすることだった。
 
 信号機になって一ヶ月が過ぎたころ、現場近くの路地の隅っこで僕はコンビニ弁当を食べながら川村さんに、「この仕事、嫌になったことないすか」と、生意気にも聞いていた。秋の終わりの肌寒い曇り空が広がる日だった。
 
 僕の親父よりも十歳年上の川村さんは黒く日焼けした額の深いシワをぐい、と持ち上げて、一言「ないよ」。
 
「一日中同じことの繰り返しじゃないですか」
 
「いいじゃねえか。オメーは何が不満なんだ」
 
 言葉は荒っぽいけど意外に気さくな性格の川村さんに、僕は会社の他の人たちよりもいくらか多めに心を許していた。もごもごと鳥の唐揚げをほおばりながら、
 
「いや、何がって言うほどのもんじゃないんですけどね」
 
「若いからだろ。ほかにやりたいことがあるから不満なんだよ」
 
「べつにやりたいことなんてないんですけどね」
 
「じゃあ、文句言わずにやるこった」
 
 川村さんは、ずず、と水筒のお茶をすすった。川村さんは弁当も手作りである。二重になった黒い弁当箱を肩に提げてやってくる。
 
「川村さん、弁当は奥さんが?」
 
「オレが作んだよ。朝が早いだろ。かみさんは寝てるよ、昨日の残りをぱぱっと自分で詰めるだけだから簡単なもんさ。自分で自分をその気にさせりゃ、たいていのことはできる。オメーもぐだぐだ言ってないで、ちゃんとどっかの会社で仕事したらどうだ」
 
「はあ」
 
 気乗りしない返事をした。
 
 弁当を食べた僕はまた信号機に戻る。腹が膨れたので、やや眠気を感じながら赤色棒を回していると、イヤホンから川村さんの怒鳴り声が響いてきた。
 
「おい、空見てみろ」
 
「はい?」
 
「空だよっ、空! オメーの方から飛んでくる飛行船を停めてみろ」
 
 見上げると薄曇りの空をゆっくりと、縦にしたソーセージのような巨大な飛行船がまっすぐ向かってくるところだった。僕はあわてて、
 
「川村さん、何言ってんすか。停まるわけないっすよ。飛んでるんだから」
 
「バカヤロー、早くやってみろ。いつまでもそっちを流しっぱなしにすんな」
 
 僕はいつものように大きく両手を振って赤色棒を横にした。飛行船がこんな合図に気づくものかと思いながら運送会社のトラックを停めた。下げた頭を戻すときヘルメットが顔の前にずれた。それを持ち上げながら空を見た僕は唖然とした。
 
 飛行船は空中で止まっていた。
 
 車の騒音が一瞬なくなり、ぶおーんという飛行船のエンジン音が周りに低く響いた。
 
 さながら巨大UFOに出会った人間のように、僕は飛行船を見上げて動かなかった。いや、動けなかった。
 
 すぐにイヤホンから川村さんの怒鳴り声が僕の脳髄をぶん殴った。「コラー、とっとと次を流せ!」
 
 僕は飛行船を見上げながら、夢遊病者のように赤色棒を持った腕をぐるぐる回した。すると飛行船はまたゆっくりと前進を始めた。そしてガスで霞んだ空に消えていった。
 
 二週間後、僕は久々にスーツを着ると履歴書を持って家を出た。信号機をやめ、新しい仕事を探すことにしたのである。止まっていた車の列が再び動き出したみたいだった。人生、何かきっかけになるかわからない。空を飛ぶ飛行船を止めた僕にできないことはないだろう。
 
 飛行船を止めたその日の仕事が終わったとき、川村さんは僕に向かってニヤリと笑いながら言った。
 
「ちゃんと合図が通じただろう」
 
「ええ、信じられなかったっすよ」
 
「ま、信じてやりゃあ、何でもできるってことさ」
 
 川村さんは得意そうにタバコを取り出すと仕事の後の一服をふかしながら、小さく付け加えた。「ほんとはよ、オレがやりたかったんだよ。アレを」
 
「……?」
 
「あの飛行船にはカミさんが乗ってたんだ。テレビで見て乗りたいって言い出しやがったからよー。有り金はたいて乗せてやったんだ。でもよ、ただ乗ってるだけじゃつまんねえ。だからちょっと仕組んどいたんだよ」
 
「まさか」
 
「ダメもとで飛行船に頼んどいたんだ。オレが現場で合図したら、上で止まってくれってな。ちょっとしたサプリメントだよ」
 
「サプライズじゃないんですか?」
 
 気持ちよく吐き出したタバコの煙の向こうで、いたずらが成功した子供のように川村さんの顔がくしゃっと笑った。
 
「でもよー、ケッサクだったのは飛行船止めたときオメーだったな」
 
 信号機にもちゃんと感情は残っていたのだった。 ■

 
 
>飛行船物語
 
 
 

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2008.05.14

飛行船物語(第6便)

サムシングブルー
 
 
 

「なにか青いものを身につけてくるように、だって」

「何それ」

「サムシングブルーだっけ。結婚式の花嫁が何かひとつ青いものを身につけるといいっていうナラワシ。ほかにもサムシングなんとかってあったじゃない」

「あ、なんか聞いたことある。でもさあ、わたしたちって花嫁以前じゃん」
 
「そこまで気にしなくってもいいんじゃない? 二次会なんだもん」
 
 そう言って、わたしは手にした案内状をひらひらと振ってみせた。ユミちゃんは屈託なく、
 
「わたし青いドレス持ってるから、それでいっか」
 
「そう……」
 
 トーンの落ちた声で相づちを打った。「わたし、ブルー系のものって持ってないんだ」
 
「スカーフとか、ショールとかは?」
 
「ない」
 
「だったら買えばいいじゃん」
 
「やだよ。青いものって嫌なの」
 
「どうして?」
 
「なんとなく」
 
「ヘンなの。じゃあさ、爪を青く塗るとか」
 
「げ、サイアク」
 
「じゃあ二次会行かないの?」
 
「行くけど、青いものってなんかニガテなんだよねー」
 
「そういえばそうだよね。青い服着てるとこ見たことないもん」
 
「ブルーってさ、ユウウツっていうイメージあるでしょ。そういう色、身につけてると寂しくなっちゃわない?」
 
「えー、それヘンだよー、ぜったい」
 
「ウェディングって、めでたいことなのに、どうして青なんだろ。ピンクとか黄色じゃないのかな」
 
「だからデントーなんでしょ。サムシングブルーっていう」
 
「伝統? ナラワシじゃないの」
 
「どっちでもいいよ。でも、青がニガテなのって困ったね」
 
「うん、自分で青だってわかんなきゃいいんだけどね……、あ」
 
「なに?」
 
「なんでもいいのかな? 」
 
「いいんじゃないの、青ければ」
 
「ブルーコンタクト」
 
「わっかんねーよ」
 
 
 休日、女二人でお台場に遊びに来ていた。花嫁以前どころかオトコがいない者同士である。
 
 人工的に造られた砂浜の向こうに広がる海は、イカスミを混ぜたように黒かった。風はほとんど感じない。ショートにしたばかりのユミちゃんはともかく、髪が長いわたしは海風が強いと髪の毛がぼさぼさになってしまうからありがたかった。
 
 とろんとした空気の向こうでレインボーブリッジが眩しく光っているように見える。青い空に逆さに渡した白い虹のようだった。
 
 サムシングブルーだか何だか知らないけど、青いものが幸せを運んでくると、どうしてそう考えられるのか不思議だった。
 
 青が苦手だなんて、世の中のほとんどの人たちにはあまり理解されない感覚だろう。
 晴れの日は青空と決まっている。ラジオのDJだって晴れていればいつもより陽気な声でしゃべるに違いない。
 
 でも、青空が苦手な人だってここにちゃんといるのだ。
 
 青い空を見ていると、なんだか哀しくならないだろうか。どこまでも底なしの大きな水瓶の底を覗き込んでいると、自分がすうっとその中に落ち込んでいくような気分になる。そしてそのままどこか遠くへ連れ去られてしまいそう……ということは誰にも話したことがない。
 
 雲があればひとまず安心なんだけど。
 
「ねえ、あれ何?」
 
 そのときユミちゃんが青空の片隅を指差した。
 
「え?」
 
「ほら、あそこ。レインボーブリッジの、右の柱の2センチ上」
 
 目を凝らした。コンタクトレンズ(ふつうのソフトコンタクトである)をつけていたけれど、視力はいいほうではなかった。 

 ようやく焦点の合った青空の中に、小さく白い風船のようなものが浮かんでいた。
 
 ユミちゃんは左手を帽子のひさしのようにかざして、
 
「ゆっくりこっちに向かってるみたい。気球?」
 
「飛行船でしょ」
 
 白い飛行船はゆっくりゆっくり進んでいるように見えて、気がつくとレインボーブリッジの向こうに、白い体をくっきりと見せていた。
 
 ユミちゃんは眩しそうに目を細めながら、
 
「あー、あれ乗りたいな。今日みたいな日だと気持ちいいだろうね」
 
「うん……」
 
 わたしは高いところから見る青空はどうなのか心配になってしまう。飛行船がどんどん青い空に上がっていって帰ってこれなくなってしまうイメージが頭の中に浮かんだ。
 
 すると次の瞬間、ユミちゃんは受験の合格発表を見つけた学生のように飛び上がり、
 
「あっ」
 
「どうしたの」
 
「あの飛行船もサムシングブルーじゃん」
 
「なんで?」
 
「青い線が入ってるよ」
 
 よく見ると波の形のようにゆるやかにカーブした青いラインが白い飛行船を彩っていた。まるでリボンのように。
 
 ぴかりん、と太陽がウィンクしたようだった。
 
「ああーっ!」
 
 わたしも思わず叫んだ。
 
 隣でユミちゃんがびっくり目を見開いてわたしを見、
 
「どうしたの!?」
 
「リボンよ、リボン!」
 
「何が?」
 
 わたしは両手を頭の後ろに回し、自分の髪を束ねて持ち上げるようにしながら、
 
「サムシングブルーを何にするかって話。青いリボンで後ろ髪を結べば……」
 
「自分じゃ見えない、ってわけか。あったまいいー!」
 
 とびきりのアイデアを褒められ、わたしは嬉しくなって青い空を見上げた。
 
 飛行船はゆっくり向きを変え、羽が三枚ついたお尻をわたしたちのほうへ向けると東京タワーの方へと小さくなってゆく。その白く丸い姿を見ながらわたしは呟いた。
 
「やっぱり、サムシングブルーっていいことあるのかな」
 
 もしそうなら、わたしも青を好きになっていいのかもしれない。
 
 ユミちゃんは真剣な顔でわたしに言った。
 
「これで彼氏ができたらホンモノだね」  ■
 
 
 
>飛行船物語
 

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2008.04.30

飛行船物語(第5便)

ぽかり

 
《ぽかり》ってあだ名の先生がいた。オレが高校生のときだ。
 
 ん? もう半世紀前のことだよ。ははは。だからポカリなんとかっていう名前のドリンクは関係ないよ。
 
 なんしろその先生は生徒達がちょっとでも悪さをするとすぐに並ばせて、ぽかり、と頭にゲンコツを食らわすんだ。
 
 宿題やってない、ぽかり。掃除をサボった、ぽかり。下校するとき他校の女子生徒にちょっかいを出した、ぽかり。いやこのときは、ごつん、だったかな。
 
 そう、オレのことだ。ははは。
 
 今だったら体罰問題になるかもしれんな。そのときは体罰なんて言葉、聞いたこともなかった。みんなそれが当たり前だと思ってたからな。別に嫌だとも思わなかったさ。悪いのはこっちなんだから。
 
 しかしそのときは、《ぽかり》から逃げ回ってばかりいたなあ。隠れてタバコ吸ってるところへ、見張り役が飛んでくる。やべえっ、《ぽかり》が来たっ、てな。そうすると急いでタバコをもみ消して石の下に隠すと蜘蛛の子散らすみたいに逃げるんだ。
 
 でも、わかってたんだろうなあ。ぽかりには。ちゃんと締めるところ締めて、どこかでうまく抜いてくれてたんだ。今じゃそういう加減のわかる先生はいないんだろう。残念だな。
 
 高校を卒業するとオレは地元からちょっと離れた町の運送会社で働くようになった。
 
 最初は事務や荷物運びをやらされるんだが、オレはほら、このとおりおっちょこちょいだろ。
 
 うんうんって頷くなよ。そうじゃありません、って言ったって罰は当たんねえぞ。ははは。
 
 そこでオレはしょっちゅう伝票や荷札のつけ間違いをしてたんだ。野球なんかで凡ミスをやらかすと、《ぽかをした》って言うだろ。だからそこの会社じゃ、みんなオレのことを《ぽかり》と呼ぶようになった。
 
 おい《ぽかり》。この荷物トラックに乗せといてくれよ。ってなふうに。そしてその後に続けて言うんだ。隣のトラックに乗せるんじゃねえぞ、南に行く荷物が北に行っちまう。
 
 悔しかったなあ。高校生のときに先生に《ぽかり》ってあだ名をつけたせいだって真剣に悩んでたもんさ。
 
 そういうとき、《ぽかり》に優しくしてくれる経理の女の子がいたのさ。怒られて落ち込んでるオレを映画に誘ってくれた。
 
 何を見たっけ。違うよ、『ゴジラ』じゃないよ。ほら、何だっけ。最後に海から死体が上がってくるっていう映画。そう、『太陽がいっぱい』だ。
 
 なんのことはない、彼女はアラン・ドロンが見たかったんだ。オレをダシに使ったってわけ。いくらなんでもオレとアラン・ドロンを比べられちゃあたまらない。
 
 オレのほうが勝っちまうよ。なにしろヤツは字幕でしか日本語をしゃべれないんだから。ははは。
 
 誘われたはずのオレのほうが彼女を口説いた。彼女は商業高校出たばっかりでな、オレと同い年。ソロバンが早かったっけ。なにしろ死ぬ三日前まで家計簿をつけてたくらいだからな。
 
 ああ、そのもしかしてが当たりだ。そうだよ、彼女がオレの女房の聡子だ。
 
 夜中にトイレで倒れてなあ。急いで病院に運んだんだが、ぽっくり逝っちまった。高血圧ってのは油断がならねえもんさ。あんたもちょっと太り気味だね、気をつけたほうがいいよ。
 
 女房が四十年以上つけてきた家計簿はみんなとってあるよ。捨てられるわけがない。倒れる日に書いたのは、豆腐150円、ごぼう198円、にんじん158円、豚ひき肉216円。
 
 覚えちまったな。
 
 オレの好きなきんぴらごぼうを作ってくれた。ひき肉混ぜるとうまいんだよ、これが。ビールのつまみには最高だね。
 
 聡子が死んだのは、いまだにちょっと信じられないね。なにしろ《ぽっくり》だったから。葬式も済ませて、墓にも入れて、毎日仏壇拝んでもだめだ。
 
 朝起きると、どうしてみそ汁作ってないんだろう、と思っちまう。困ったもんだよ、はは。
 
 心に《ぽっかり》穴が開いた、って言うだろう。ああ、こういうもんかと思ったね。この穴は自分の頭をぽかりとやっても埋まりそうがない。シャレじゃあないよ。高校生のときの《ぽかり》先生にご登場願いたいくらいだ。女房が死んだくらいで何ボンヤリしてんだ、ぽかり。
 
 この頃は空を見ることが増えたなあ。しがない年金暮らしだ。庭いじりのほかはとくにやるこたないからね。家にいるさ。
 
 そうそう、うちの上をよくあれが通るんだよ。ほら、飛行船。
 
 あれは不思議なやつだよなあ。庭にいて、もう来る頃だろうって思って目え凝らして空を見ても全然見つからない。
 
 ちょっと忘れて、ふと空を見ると、ぽかりと浮いてやがる。
 
 ああまったく、ぽかり、だよ。
 
 オレはいつも見上げてるだけだが、飛行船は気持ち良さそうに飛んでいくよな。うらやましいよ。あれに聡子を乗せてやったら喜んだだろう。もう無理だがな。
 
 いや……、待てよ。
 
 もしかしたら、もう乗ってるのかもしれないなあ。なにしろ空を飛べるんだろ、霊魂ってやつはさ。あの飛行船と一緒に、ぽかりと空に浮いてるんだろう。
 
 おい、明日は飛行船、飛ぶのかい。
 
 
 
>飛行船物語
 


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2008.04.19

飛行船物語(第4便)

鏡に恋
 
 
 しゃき、しゃき、とハサミの動く音とともに、わたしの栗色の髪の毛がはらりはらりと落ちていった。
 
 首から下を覆った白いシーツの中で指先を動かして、シーツに乗っかった髪をちょんと跳ね上げてみた。すると10センチほどの長さに切られた十数本の髪の毛グループは、もうわたしたちはあなたと関係ありませんから、というふうに、するりとシルクのようなシーツを滑り降りてメープルブラウンの床に散らばった。
 
 今までわたしの体の一部だったものがわたしの体を離れ、存在してるというのは、不思議だ。
 
 今までわたしの一部だった。神経こそ通ってなくとも、わたしの肉体が生み出した物質である。それが切られたとたんによそよそしい。
 
 これが自分の腕や足だったらどうなるんだろう。
 
 おそらく正気じゃいられないに決まってる。痛さよりも、失ったものの大きさに嘆き悲しむことだろう。そう想像すると、切られた髪に何の感傷もないわたしは、膝の上に落ちた髪の毛たちになんだか申し訳ない気持ちになる。
 
 そんなことをわたしの後ろに立ってハサミを動かし続けているタケさんに言ったらどういう顔をするだろう。
 
 ちょっと困った顔をして、それでもわたしを傷つけまいとほほに笑みを浮かべて、「優しいんだね」とか言ってくれるだろうか。
 
 わたしにはそんなくせがあった。相手が答えに困るような質問をするのだ。もちろん正しい答えを求めているわけではない。わたしが感じる《不思議なこと》を、わたし以外の人はどんなふうに感じているのか知りたいだけだ。
 
 たまに『自分はこう思う』と答えてくれる人がいると、その人の頭の中を覗き見したような気分になって楽しくなる。写真週刊誌のゴシップ記事なんかよりずっとドキドキする。
 
 ねえ、そう思いませんか、とわたしは鏡の中のタケさんに向かって言った。
 
 鏡の中の人だから普通に口に出して言ったところで通じない。鏡の中だけで通じる言葉で言う。
 
 でも鏡のタケさんは何も答えてくれなかった。きっと髪を切ることに集中してるんだろう。
 
 鏡の中のタケさんはかっこいい。
 
 ちょっと顔を斜めにうつむき加減にしていると、彫りの深い顔立ちがいっそう引き立つ。ギリシャ彫刻のようとまで言うつもりはないけど、鋭角的なあごのラインやすっと通った鼻筋は日本人離れしていた。
 
 わたしは映画のスクリーンを眺めるように鏡の中を見ていた。
 
「それはね、心と体がべつべつのものだという証拠じゃないかな」
 
「え?」
 
 不意に鏡のタケさんから話しかけられた。信じられない。声が聞こえた。耳の鼓膜を震わせるんじゃなくて、体の中のどこかがタケさんの声をとらえて震えていた。
 
 鏡のタケさんは手を動かしながら言う。
 
「心と体はお互いに仲良くしたり、けんかしたりするだろ。だから別れることだってあるよね。もし事故で手足がなくなったとする。しばらくは痛いけど、でもずっと痛いわけじゃない。それぞれ別の道を歩くだけなんだから。だから髪を切った後、切られた髪のことを思い続ける必要はないんじゃないかなあ」
 
「恋愛みたい」
 
「そうだよ。もしかしたら恋愛関係のほうが心と体の関係を真似たのかもしれないね」
 
「タケさん、すごい」
 
 すると、鏡のタケさんはちらりと白い歯を見せて笑い、
 
「だからもし、彼氏とうまくいかなかったからといって気にすることなんてないんだよ」
 
「気にしてません」
 
 図星を指され、わたしはほほをふくらませた。「それに、アイツなんかよりもっと好きな人がいますから」
 
「へえ、そうなんだ」
 
「誰だと思います?」
 
 するとタケさんはわたしの質問には答えず、ハサミをそばにあったワゴンに乗せると鏡の中の窓を指差した。「ほら、プレゼント」
 
 鏡の中の窓に映る青い空はまるで水槽のようだ。その中を、ゆっくりと泳いできた小さな白い魚がいる、と思った。魚じゃない、飛行船だ。
 
 白い飛行船はゆっくりゆっくり青い水の中を泳ぐ。わたしはその姿に見とれた。 
 
 かわいい。

「ふふ」
 
 思わず笑った。こんなことをしてくれる鏡のタケさんが好きなのだ。
 
 鏡のタケさんも窓の向こうの飛行船を見ながら、
 
「今日のプレゼントは特別。本当の僕はこうして君と話せるわけじゃないからね」
 
「どうして?」
 
「どうしてだろう。今度は君が考える番だよ」
 
「わからないよ」
 
「じゃあ今度、君がこの飛行船を見つけたときに教えてあげるよ」
 
「それはいつ?」
 
「空を見ていれば、いつか」
 
 鏡のタケさんは振り向くと、じっとわたしを見つめた。その顔に触れたかった。でもわたしの手はシーツの中だ。
 
 こんなに好きなのに。
 
 わたしの気持ちを伝えたかった。 
 
 椅子に座ったまま手足を自由に動かせないこの状態で、気持ちを伝えるには言葉しかない。
 
 でもそのひと言が言えなかった。どうしても唇が動かなかった。
 
 あれ? 遠くで男の人の声がわたしの名前を呼んでいる。うるさいわね、今いいところなんだからほっといて。
 
……カット終わりしたよ。あのー、起きてください……  ■

  
 

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2008.03.26

飛行船物語(第3便)

記念写真
 
 
 ばしゃばしゃと音をたてて白鳥が岸に近づいてくると、同時に「パパー!」と幼い子どもの声が飛んできた。
 
 僕はスワンボートの中に座る小さな女の子に手を振った。その隣にはその子の母親が乗り、ペダルを漕いでいた。彼女は僕を見ていなかった。
 
 上野公園の不忍池には白や黄色に塗られたスワンボートがちぎったパンくずをばらまいたように浮かんでいた。池の上をカモメやハトが舞っていた。
 
 ゆるやかな円形の池を取り囲むように遊歩道がある。そこのベンチに座った僕は、暖かな陽射しを浴びながら缶ビールを飲んでいた。
 
「パパー、写真撮ってー」
 
 今年五歳になる女の子は缶ビール片手の僕に向かって笑顔を投げた。僕は頷いてポケットからケータイを引っ張り出し、レンズをボートに向けた。
 
 ケータイのカメラでは女の子の表情まではよくわからない。名刺よりも小さな画面に黄色い白鳥が池に浮かんでいるように写るだけだ。それでも僕はシャッターを押し、撮った画面を女の子のほうに向けた。撮ったという事実を証明するために。
 
 女の子は僕の娘であって娘ではない。
 
 娘の母親はぼくの妻ではないが、一年前は妻だった。名前を美也子という。
 
 つまり、僕はバツイチなのだ。そして今日は半年ぶりの《家族の日》。
 
 離婚の原因は、声をひそめて話すほど深刻なものじゃない。互いの気持ちが醒めるのが早かったというだけだ。思い返せばよく三年も結婚生活が続いたと思う。
 
 これが一方の浮気だとか金銭問題が原因ならともかく、二人とも相手が自分と合わないと感じたので離婚を決めるのも簡単だった。ただひとつ、三歳だった娘のことを除いて。
 
 娘の名前は咲季子である。
 
 咲季になる予定だった。四月生まれなので、花の咲く季節で咲季。それを僕の実家筋にいる占いだか予言だかに強い人がいて字数が悪いと言い出し、美也子も結局それを受け入れる形で子という字をつけた。
 
「子がつくなんて、なんか古くさいくない?」
 
 力負けしたボクサーのように眉間にシワを寄せ、彼女が不機嫌そうに言ったのを覚えていた。離婚するのがわかっていたら、咲季のままでよかったのかもしれない。
 
 そんな咲季子を、僕たちは互いに自分が引き取ると言い合ってもめた。
 
 娘を育てる自信なぞ婚約指輪についたダイヤモンドのかけらほどしかなかった僕が咲季子を引き取ろうとしたのは……。
 
「パパ、写真見せて」
 
 ボートを降り、ベンチに座っていた僕のところへ、咲季子と美也子が戻って来た。美也子は見覚えのあるベージュのロングコートを着て、白い額にうっすらと汗をかいていた。
 
 僕は体をベンチの端にずらして、
 
「座れよ」
 
「いい」
 
「どうして」
 
「そのベンチ、汚れてそうなんだもん」
 
 こういうときは、敢えて勧めたりしない。三年間の結婚生活で学んだことだ。
 
 咲季子はさかんに僕のひざの上に乗ろうとする。その柔らかい体を抱き上げて、予想外の体重が加わったことに驚いた。
 
「重たくなったなあ」
 
「抱っこするのがたいへんよ」
 
 美也子は言う。その口調に非難めいた色が入っていた。
 
「抱っこだけか、たいへんなのは」
 
「べつに」
 
 否定の意味で《べつに》と言ったわけではないだろう。
 
「困ったことがあったら言えよ」
 
 ふん、と鼻を鳴らして美也子はそっぽを向いた。その鼻筋の通った冷たそうな横顔を見ながら、咲季子が美也子に似ていないことが残念な気がした。美也子は顔をそむけたまま、
 
「よけいなポーズを取るんじゃなかったわ」
 
「ポーズ?」
 
「あなたもそうでしょ。育てる気もないくせに《オレが引き取る》とか言った」
 
「ばか、オレは本気で」
 
「それがポーズなのよ。愛してるふりを示そうとする。そうせずにはいられないのよね。偽善者? そういうのにね、わたしも疲れたのよ」
 
「……嫌なのか」
 
 ひざに座る子の名前を省いて美也子に尋ねた。彼女は答える代わりに「年が明けたらランドセルを買いに行かなくちゃ」、と呟いた。
 
 僕も彼女も偽善者だ。そのとばっちりを知らぬ間に受けているのが、僕の膝の上にいる一人の女の子だった。
 
 必要なものは、咲季子を本当に愛することのできる父親と母親なのだろう。その二人になることを僕たちは微妙に避けていた。
 
「あっ、風船ー」
 
 そのとき、僕たちのやりとりにはまったく関係なく、咲季子は青い空に向かってクレヨンのような指を突き出した。
 
 空にあるのは風船ではなかった。白い飛行船がオレンジ色を混ぜた青空をゆっくりと進んでいた。
 
 咲季子の指差すほうを美也子も見上げた。僕たち三人は同じ空と飛行船を見上げていた。
 
「パパ、写真撮って!」
 
 咲季子が叫んだ。
 
 気がつくと飛行船は早くも公園の上を横切り、卵のような丸い後ろ姿を見せていた。それでも僕はケータイのレンズを空に向け、シャッターを切った。
 
「撮れた?」
 
 蝶をつかまえたかと聞くように咲季子がケータイのディスプレイを覗き込んだ。
 
 しかし、写真は期待するほどのものではなかった。飛行船は小さな画面の中で小さな白い点にしか見えなかった。僕が慰めるように、「だめだったね」と言うと、僕と同じ輪郭を持つ少女は強く頭を振って言った。
 
「いいの。だめじゃないよ、ちゃんと写ってるよ。これ、さっきの風船だもん。そうでしょ」
 
 咲季子が飛行船を見たのは生まれて初めてのことだろう。いや僕も、もしかしたら美也子もそうなのかもしれない。
 
「こういうのキネンシャシンって言うんだよね」
 
 咲季子が僕を見上げて言った。
 
 その目が美也子と同じ形をしていることを僕は思い出していた。突っ立ったままの美也子がぽつりと言った。
 
「その写真、わたしのケータイにも送ってね」
 
 僕は飛行船が戻って来ないか空を見上げたけれど、羽根のような雲が浮かんでいるだけだった。
 
 
 

 
 
>飛行船物語 
 
 

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2008.03.20

飛行船物語(第2便)

《読む》飛行船。第2便『うわの空』 
>飛行船物語
 
 
うわの空
 
 
「今度ばかりは本気で過労死するんじゃないかと思ったね」
 
 わたしはタカユキの言葉をうわの空で聞いていた。映画館が入っている有楽町のビルの中である。冷たいシルバーの手すりにもたれて私たち二人は立っていた。
 
 ちょうど上映が始まったばかりでフロアは閑散としていた。スケートができそうなくらいに磨き込まれた床には窓から入る明かりが反射していた。窓の向こうは高層ビルに遮られながらも青い空が見えた。
 
「だってさあ、朝8時に出勤して帰りは終電、そのパターンが一週間続いたんだぜ。死ぬっちゅうの」
 
 口から唾を飛ばしながらしゃべり続ける横顔。わたしはその顔を見ていない。わたしの視線は窓の向こうの青い空を飛んでいる飛行船に向けられている。
 
「休みを取ろうとしたらさ、イヤミ言われんたんだ、彼女と過ごすのかって。ホント、ムカつくよ。オレ会社やめようかな」
 
 飛行船はゆっくりゆっくりと音もなく、四角いフレームの中を左から右へと進んでいる。止まっているように見えて、進んでいる。
 
「仕事だってさあ、ほとんど毎日同じことの繰り返しなんだよ。旅行会社っつったって仕事は地味なもんだよ。予約の電話受けてさ、振込の催促してさ、これで入金がちょっとでも遅れるもんならオレが主任から怒られる。知らねーっつうの」
 
 どんな人が乗ってるんだろう。あの細長い風船の下についたゴンドラの窓からはどんな景色が見えてるんだろう。視線どころかわたしの意識も飛行船まで飛んでいく。
 
 飛行船は今やフレームの真ん中あたりに来た。薄く煙のようになびいた雲の上を飛んでいる。気持ち良さそうだ。
 
「休みがとれて、せっかくおまえと見たかった映画見られると思ったらもう終わってやんの。あー、ついてねえなあ、まったく。なあ、聞いてんの?」
 
 わたしは飛行船に乗っている自分を想像している。椅子に腰掛け、はるか地上で蟻んこのようにうごめく人やら車を眺めているのだ。ほんとうに小さい。あまりにも小さいから、ぷちっと指の先でつぶせそうだ。もちろんそんなことはできないだろうけど。
 
「おい、さっきからどこ見てんだよ」
 
 いきなりタカユキの後頭部がわたしの視界を遮った。わたしの視線と同じ方向へ頭を向けたのだ。飛行船は黒い髪の毛に隠されてしまった。
 
「なんだ、あれ」
 
 ああ、見つかったちゃった。わたしは隠しておいたお菓子をお姉ちゃんに取り上げられた子どものときの気分を久しぶりに味わった。
 
 タカユキはわたしに後頭部を向けたまま、
 
「気球か?」
 
 飛行船よ。
 
「ずいぶん小っせえなあ」
 
 遠くを飛んでるからでしょ。
 
「あんなもの見てるより、オレの話を聞けよ」
 
 あんたの愚痴なんて聞きたかないの。それより、そのでかい頭をどけてよ。
 
 わたしは腰を浮かせてタカユキの頭越しに飛行船を見ようとした。
 
 飛行船はちょうどフレームの右端から出て行き、見えなくなるところだった。お尻のところについてる三枚の羽だけがちらりと見え、すぐに隠れた。
 
 何かが切れた。
 
「ばか! 飛行船、見えなかったじゃないの!」
 
 わたしは叫んだ。フロア全体の空気が震えて、タカユキはびくっと体を痙攣させた。チケットのもぎりをする女の子がおびえたようにわたしを見た。
 
「あんたの仕事のつまらないことなんてどうでもいいの。わたしだって先週一週間締め切り抱えて休日なしの十二時間労働だったんだから。ぜんぜん原稿よこさないでばっくれたライターがいたのよ。よりによってわたしの担当ページ。それをもう一度取材し直して記事書かせて……、本当に死ぬかと思ったわよあのときは。それをわたしがあんたに文句言ったことがあった? ないでしょ。それなのに、どうしてあんたの愚痴ばっか聞いてなくちゃいけないの。たいへんなのはあんただけじゃないのよ。どうしてそんなことがわかんないわけ? 映画が終わってたっていいじゃない。別のを見れば。どうせDVD借りてきて見るんでしょ。せっかく休みが取れたんならどうして楽しくできないのよ。わたしの休みまでダメにしないで」
 
 タカユキの目が小さくなっている。その小さい目をしばたたかせて、ぽつりと、
 
「ごめん」
 
「…………」
 
「飛行船、だっけ。好きなのか」
 
 わたしは黙って頷く。
 
「こんど乗せてやるよ」
 
「冬のボーナス全額つぎ込む気?」
 
「へ?」
 
「高いのよ。一人十何万円ってするんだから」
 
「…………」
 
「いいわよ。乗れるなんて思ってもいないから。こうやって眺めてるだけでいいの」
 
「乗せてやるよ」
 
「ばか、無理しなくていいの」
 
 私は下りのエスカレーターに向かって歩き出した。飛行船は行ってしまった。わたしの気持ちを少し軽くして。
 
「乗せてやるってば」
 
 タカユキが追いかけてくる。遊園地の乗り物じゃないんだから、と思う。わたしはエスカレーターのステップに足を乗せて振り返った。
 
 雨に降られて泣きそうな顔がわたしを見ていた。わたしの心は曇りのち晴れである。笑顔で言った。
 
「じゃあ、そのお金で指輪でも買ってよ。大っきなダイヤのついた婚約指輪」
 
 プロポーズがこんなタイミングになるとは思ってもいなかった。
 

 
 

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2008.03.14

飛行船物語(第1便)

読む飛行船。第1便『スモーカーの妄想』
>飛行船物語
  
 
 
スモーカーの妄想


 とんとん、と右肩を軽く叩かれて振り向くと美少女がいた。
 
 美少女、と思ったのは間違いではなかった。紺色のブレザーにタータンチェックのスカート。結び目の緩んだ赤いリボン、とくればまぎれもなく今を花とときめく女子高生。男なら誰だってぐっと唾をのみ込むことだろう。
 
 それに、と僕は息をものみ込んだ。
 

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